鍛え方不足

先日来室された男性が、体の不調の原因について「鍛え方が足りないのでしょうか」と言われたのを聞いて、これを聞くのは何人目だろうか…と思った。
施術を受ける方の言葉にハッとさせられることは多々あるが、今回のように複数の方が全く同じ台詞を口にされることもあり、それもまた興味深い。

体の痛みや不調は、年齢や性別、生活と関係が深いので、同じ属性の方が似た悩みを訴えることは珍しくない。それでも、この”鍛え方不足”という捉え方は、私の知る限り、男性のものである。しかも、普段から体を鍛えていそうなマッチョな男性ではなく、20代のヒョロリとした今風サラリーマンから80歳過ぎの病気を持った老人まで同じことを言われるから驚く。
運動不足を自覚している人は男女年齢を問わず多いと思うが、”鍛え方不足”という言葉には何となく”運動不足”以上のものを感じてしまう。どこか責めているような、精神論臭さ、と言えばいいだろうか。

ジェンダーという言葉が一般的になったのはいつ頃だったか忘れてしまったが、生物学的性差に基づく役割や規範の押し付けが不当であるという認識は、主に女性差別の問題で取り上げられることが多いと思う。”女だから○○すべき”といった類の言い方は、確かに私が子供の頃と比べて表面的には少なくなった。女性にいわゆる”女らしさ”を強要することに対して、女性自身も世の中もかなり敏感になったと思う。

”鍛え方が足りない”という台詞を聞く度に私が感じるのは、女性が意識的に手放しつつある”らしさ”を、意外にも男性の方が未だ自らに課しているのではないか、という疑問である。”男たるもの心身を鍛えるべし”的な規範が、戦前生まれはもちろん、平成生まれの若者にまで内在化されている、と言ったら大げさだろうか。

自分自身に対して”こうあるべき”と信じていることについて、その必要性を疑う機会はあまり無いものだが、ジェンダー問題を改善するカギは、案外、男性が自身に期待している古典的な”男らしさ”を自覚することにあるのではないか。
世界が男女で構成されている以上、どちらか一方だけが”らしさ”から自由になる、ということはバランスとしてあり得ないと思うからだ。