自分の癖

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

昨年後半は、趣味の合唱の演奏会のための練習や準備に追われていたのだが、演奏会本番が近くなり、練習も佳境に入った頃、急に”歌えなく”なった。声が出なくなったわけではなく、自分のパートを歌っていても、ハーモニーの一部になっている感じがせず、身(声?)の置き所がなくて苦しい。

何が悪いのか、どうしたものか・・・と思いながら練習の録音を聞き直してみると、何かが間違っていておかしい、というより、間違えないようにビクビク歌っていておかしい、と気づいた。卒業証書を受け取る壇上のロボット歩きのような感じである。

もちろん、楽譜に書かれていること(音やリズムなど)を正確に再現する必要はあるし、私のような素人の場合、その部分にかなりの労力を費やすことにはなるのだが、それでも、楽譜通りに正しく、つまり間違わずに歌うことにばかり意識が向きすぎて気持ちと体が萎縮し、不自然な歌い方になっていたようだ。

私に限らず、大抵の人は、調子のいい時はあまり何も考えず、調子が悪くなると、あれこれ原因を追及したり、不快さを取り除いてくれる手段を探したり、といろいろ考えたり試したりしてみるものだと思う。

治療室には、どこか調子が悪い方が来室されることが多いので、そういう時、人は自分が元々持っている人生の対処法をより強化することで対応しようとすると感じていた。つまり、頑張るタイプの人はもっと頑張って治そうとするし、用心するタイプの人は更に用心して大事にしようとする。

ご本人にとっては自分のやり方や考え方が当然かつ最善で、長年その方法で対処してきたし、まして不調時に新しい選択肢を試すという冒険をする気持ちになれないのも理解できる。
ただ、調子が悪くなる、というのは、これまでのやり方ではうまくいかなくなった結果であることは多いので、”押して駄目なら引いてみろ”ではないが、従来の対処法を見直す提案をしてみたりするのだが、"頑張って休みます”みたいな話になったりする・・・
自分の癖はなかなか手放せないものだと、日頃から感じていた。

そこで冒頭の話だが、おそらく私も無意識に、”うまく歌えないのは、どこか間違っているからではないか”と思い、間違わないように歌おうとして更に自分の首を絞めていたわけである。
それで、次の練習の時はあえて、”間違ってもいいから、楽しく歌う”と自分に言い聞かせて臨んだところ、前回よりずっと自然に歌えるようになった。しかも、録音で確認しても、特に間違いが増えたわけでもない。

なあんだ、と拍子抜けすると同時に、ちょっと視界が広がったような気がした。自分の考え方の癖を手放すかどうか以前に、癖に気づくことの方が大事なのかもしれない。
街中の鏡に映る自分の姿を見て、一瞬誰だかわからずびっくりすることがあるが、もし自分の言動を一日中録画したものを見たら、知らない自分がたくさん映っているのだろうと想像したりした。(正直、見る勇気はないけれど)