庇われる人

十年程前、趣味の合唱の関係で、子どもの合唱コンクールのお手伝いをしたことがある。その時、子ども達から「○○していいですか?」という質問を受けることが多く、その礼儀正しさに感心すると同時に何となく違和感を覚えた。子どもというのは(年齢にもよるが)本来あまり考えずに行動するもので、事前に大人に確認したりしないものだ、と何となくイメージしていたからだ。

この春、自分の子どもが小学校に入学して、その謎が少し解けた気がした。規則、というほどではないが、きまりごとがとても多い。地域や学校による差はあると思うが、子ども生まれてから、通った保育施設や遊びに行く公園でも同じことを感じてきたので、時代の変化なのだろう。

集団生活にルールが必要なのは当然だが、そのルールが何というか、至れり尽くせりなのである。子どもの安全のため、勉強に集中するため、といった理由で持ち物や行動に細かいきまりがあるのは、配慮が行き届いてありがたいと言えるのかもしれない。慢性的な過剰労働と人手不足だと言われる学校には、少しでもトラブルを減らしたい事情もあるだろうし、親の側にも、学校で決めてもらった方が楽という思いもあるだろう。

けれども一方で、きまり=既に決まっていること、が多いと、子どもが自由に試したり失敗したり出来る余地は少なくなる。この洋服や学用品は学校の勉強に相応しいのか、提出物を出さないとどうなるか、何をしたら危ない目に会うのか、それを考えたり経験したりする機会や、自分の家の考え方と友達の家のそれとが違うことがある、と知ることも減る。何でも最初から決められているなら、自分で考えることを止める方が合理的なので、冒頭に書いた「○○していいですか」と聞く子どもが増えても少しも不思議ではない。

私が整体の勉強を始めた時、先生は「人は、庇われるよりも庇う方が丈夫になれるんです。だから整体の勉強をすると、周りの人にしてあげられるだけでなく、皆さんにとってもいいことがあるんですよ。」と言って悪戯っぽく笑われた。過剰な配慮というのは、意図せずして配慮される人の力を発揮させる機会を失わせてしまう、ということだったのだと今思い出している。